静かな温泉宿だったせいか、疲れ切っていたせいか光長が目を覚ますとすっかり日が高く昇っていた。
※ここからは18歳以上の方のみどうぞ
[0回]
もう昼近いのだろうか。
そんなことを思いながら光長は慌てて体を起こした。辺りに人の気配が無くて光長は雅秀を目で捜した。荷物も無くなっていることに慌てた。しかし、正直少しホッとしていた。
立ち上がろうとして、腰から下が痺れるような感覚に気づいた。痛みがあまりないことはありがたいが、とても機敏に動ける感じではない。さて、これからどうしたものかと思っていると腹が減っていたのか、腹の虫が音を立てた。
今までずっと雅秀に何もかも任せっきりだった。自分ひとりで食事すらしていないことに気がついて、この宿から出たらどうやって帰途につくのかさえわからない。
「これでも大人の男なんてな」光長はクスリとひとりで思わず苦笑した。
とりあえず服を着て部屋の外に出るとたまたま通りかかった仲居が声をかけてきた。
「おや、お目覚めでしたか。お連れ様からお客さんが起きられたらレストランまで案内してやってくれと言われてました。お会いできて良かったです。すれ違っていたら私が怒られてしまうところでした」中年くらいの仲居はにこやかにそう言うと、「ちょっと待っていてくださいね。その間お荷物を取ってきてください」と手にしていたお膳をどこかへ置いてきた。
「さて、行きましょうか」廊下に立って待っていた光長にそう促すと先に立って歩き始めた。
彼女はスタスタと着物姿のままフロントの前まで来るとフロントに光長の部屋番を告げた。雅秀は自分がいなくてもチェックアウトできるように全て手配済みだったらしい。そのまま入口の自動ドアを抜けると彼女は光長に振り返った。
「少しこちらでお待ちください」
そのまま従業員の駐車場へと早足で歩いていく、すぐに白い小型車が光長の目の前に止められた。その窓が開いてさっきの仲居が顔を出した。
「小さくて乗り心地が悪いんですけどこちらでお送りします」
光長はそう言われて助手席側のドアを開くと彼女の横の席に座った。
シートベルトをすると「それじゃあいいですか」と聞かれたので頷いた。
雅秀はホテルの従業員にまで言いつけて光長のことを気遣っていたらしい。
どうしてそこまでしてくれるのかと考えるとふと雅秀が途中まで話したことを思いだした。
『お前、八百比丘尼(やおびくに)って聞いたことがあるか?・・・戦乱の時代に俺たちのような浪人が生き残れる確率は低かった。そしてようやくお前を手に入れた俺は少しでも一緒にいられる時間が欲しかった・・・』
もしもそんな非現実的な話が本当ならば、雅秀は光長のことを何百年か待っていたことになる。
その間彼はどんなに孤独で寂しかったことだろう。ふと考えたら悲しくなった。
「お客さんどうしました?大丈夫ですか?この辺は道が悪いから車酔いだったら止めますよ」
泣きそうな顔をしてフロントガラスを見つめていた光長に仲居が声をかけてきて光長はハッとした。
「いえ、大丈夫です」そうだった、今はひとりじゃなかった。
いつの間にか窓の外は田舎ののどかな風景から少しだけ街らしい商店街に入っている。
「それならいいんですけど、もうすぐですからね」
仲居は正面を見たまま真剣にハンドルを握ってそう言った。やはり隣に客を乗せて運転するのは緊張するらしい。強ばったような姿勢が少し滑稽にさえ見えた。
商店街を抜けて湖のほとりに来るとそこには洒落た西洋の古城のような建物が建っていた。その横には『マーメイド』という真鍮のプレートが着いていた。
彼女はその建物の正面に車を止めると黒服を着た若い男性がドアを開いた。
「いらっしゃいませ、風間様でいらっしゃいますか」
雅秀は本当に滞りなく手配してくれていた。
<「弦月」湖畔にて1へ続く>
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