茶室に招待されたものの光長はどうしたらいいのかわからずただ座っていた。
釜の横に社長が座っていた。
「社長さん」
「芳生」
「?」
「私のことはそう呼んでください。ビジネスの時は我慢しますが、社長という呼び方は好きではありません」
芳生は自分の目の前に置かれた茶碗に釜のお湯を柄杓で注いだ。
それを両手で持つと一度中をすすぎそのお湯を捨てる。
「あの、僕はよくわからないのですが」
戸惑う光長に芳生は棗から茶さじでお茶を入れて、もう一度釜からお湯をすくって茶碗に入れた。部屋にシャカシャカという茶筅の音が響いてからその茶碗を光長の前に差し出した。
「どうぞ。心配は無用です」
茶碗を置かれてもそれをどうしたらいいのかわからず光長はその茶碗に手を伸ばした。
「ダメです」
「は?」
光長は顔を上げて芳生を見た。
「まず、相手に両手をついて挨拶してから茶碗を持つんです」
光長は言われたとおりにお辞儀をして茶碗を手にした。
「そうです。そしてそのお茶碗を良く眺めてください」
そう言われても光長にとってはただの黒っぽいゴツゴツした茶碗にしか見えない。
なんとなく手にして眺めていると芳生はフッと笑った。
「別に美しくも何ともない。でもゴツゴツとした見た目とは異なって持った感じがしないほど軽くて、不思議と手になじむ。その黒っぽい色もよく見るとジワリとした色合いが重ねられて趣があると思いませんか?」
「はい、そう言われれば軽いし、持っていて違和感がないです」
光長がそう答えると
「では、冷めないうちに時計回りに2回回して一気に飲んでください」
光長は言われたとおりに飲み干した。
「飲んだ場所を自分の親指と人差し指で清めて今度は逆に2回回して置いてから「結構な
お手前でした」と挨拶してください」
光長か言われた通りに茶碗を置くと、芳生はその茶碗を退いた。
「この茶碗はあなたの想像を絶するような値打ちものですよ」
芳生が眼鏡の奥からキラリと光った。
それから光長は手を掴まれてこの場に今芳生と2人きりだということを思い出した。
この建物のせいか、お茶に気をとられていたせいか油断していた。
掴まれた手はそれほど力が入っているわけではない。
だがすぐ横に置かれている茶碗が値打ちものだと聞かされたばかりで
この場で暴れればどうなるかぐらいは光長にもわかっていた。
その目で芳生を見上げると彼はそっと光長の手を引き寄せた。
「なかなか頭のいい人みたいですね。良かった。やはりあなたは素晴らしい素質があるようです」
(素質?)
その言葉に違和感を感じながら光長はじりじりと体を壁によせていく。
「これからあなたにお茶の茶碗の善し悪しをお教えしましょう」
その言葉にどんな意味が含まれているのか、今の光長にはわからなかった。
<「弦月」茶室にて3へ続く>
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